真言宗 湯舟山 萬年寺

萬年寺について

History・Cultural resource

萬年寺の歴史

呉市は、明治22年の呉鎮守府開庁以前には、人口一万五千余りの半農半漁の静かな村でした。しかし、鎮守府の設置とともに軍港都市として発展し、明治35年には安芸郡宮原村・荘山田村・和庄村の三村と二川町が合併して市制が施行され、呉市は飛躍的な成長を遂げました。

このような呉の発展の歴史の中にあって、湯舟山・萬年寺は、人々の信仰と暮らしを支える重要な役割を担ってきました。

萬年寺の起源は、この呉の地ではなく、元亀元年(1570年)、織田信長の意向により伊予国(現在の愛媛県)において僧・智圓によって開かれた寺院に始まると伝えられています。本尊は青面金剛であり、七堂伽藍を備えた大寺院でしたが、寛政年間の落雷による火災により堂宇は焼失し、寺号のみを残して一時廃絶しました。

その後、明治期に入り、萬年寺中興の祖である真隆和尚が諸国修行の折、この和庄・湯舟の地において弘法大師の霊験を深く感得し、明治19年(1886年)に観音堂を建立しました。さらに明治33年(1900年)、京都醍醐寺三宝院より「萬年寺」の寺号を許され、ここに湯舟山・萬年寺として再興されました。以来、真言宗の教えと弘法大師の法灯を伝える道場として、「ゆぶねのお大師さん」と親しまれ、地域の人々の篤い信仰を集めて今日に至っております。

本寺の山号である「湯舟山」は、この地に伝わる古い霊泉の伝承に由来します。弘仁年間(810〜824年)、弘法大師がこの地を訪れ、湯場を開いたとされ、その形が舟に似ていたことから「湯舟」と呼ばれるようになりました。また、天延年間には、傷を負った白鷺がこの湯により癒えたという伝説も残されています。

江戸時代には、この地から湧き出る冷泉が療養に効く霊泉として知られ、多くの人々が訪れました。明治期に入ると、呉の発展とともに旅館や料理屋が建ち並び、小規模ながら温泉郷として賑わい、市民や軍人の憩いの場ともなりました。

しかし、昭和20年(1945年)の枕崎台風による大水害により、湯舟の温泉郷は壊滅的な被害を受け、その姿は失われました。それでもなお、この地には冷泉が今も湧き続けていると伝えられ、往時の面影と霊験を今に伝えています。

また、呉の地は古来より風水における理想的な地勢「四神相応」の地とされ、東に休山、南に呉港、西に鉢巻山、北に灰ヶ峰を配する中で、湯舟山・萬年寺は東方、すなわち青龍の位に位置しています。水と生命力を司るこの地において、本寺は長きにわたり人々の心の拠り所として在り続けてきました。
湯舟山とともに歩んできた萬年寺の歴史は、信仰、自然、そして呉の発展と深く結びついています。その歩みは決して偶然ではなく、弘法大師の導きと真隆和尚の篤き志が重なり合ったものといえるでしょう。この地に息づく不思議なご縁に思いを馳せつつ、今後も法灯を守り伝えてまいります。

秘仏本尊不動明王の由緒

当山・湯舟山萬年寺の秘仏本尊である不動明王は、古くより弘法大師の御作、ならびに毛利元就公の念持仏として伝えられてまいりました。

しかし、令和五年、萬年寺第五世正明の晋山記念事業の一環として本尊不動明王の修復を行った際、尊像の火焔光背の裏側より銘文が発見され、その由来が明らかとなりました。

それによれば、この尊像は圓城寺(三井寺)より毛利家に授けられたものであり、智証大師の御作と伝えられる尊像であります。

毛利家が郡山城より広島城へ居城を移した際には、満松院(天神社)の本尊としてお祀りされ、家運繁栄や必勝祈願の拠り所として篤く信仰されておりました。

その後、関ヶ原の戦いにより毛利家が国替えとなった後も、福島家・浅野家の厚い信仰により護持され、幾度もの火災に遭いながらも焼損を免れ、その都度修復が施され、大切に守り伝えられてまいりました。

やがて明治期の廃仏毀釈により満松院は廃され、天神社のみが残る形となりましたが、この由緒ある尊像は萬年寺中興の祖・真隆和尚により守られ、当山へと伝えられました。

幾多の時代の変遷と困難を乗り越え、人々の篤い信仰に支えられて今日に至るこの不動明王は、まさに祈りの歴史を今に伝える尊い御仏であります。

概要
萬年寺は、瀬戸内の豊かな自然環境を背景に、法要・祈願・写経・巡拝などの祈りの機会を提供する寺院です。 四国八十八ヶ所の写し霊場として第四十五番の札所にも定められ、多くの巡拝者が参詣します。
寺院について(ご紹介)

寺院名
湯舟山 萬年寺(ゆぶねさん まんねんじ)

宗派
真言宗醍醐派(真言宗)

所在地
広島県呉市清水2-7-38(最寄駅:JR呉駅ほか)

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